グローバリゼーションの名の下にある資本主義は、文字どおり「いのち」を欠いたシステムです。血も涙もなく、ただ自らが拡張し生き延びることだけを目的化するシステムです。このシステムの中でわれわれ現代人は汲々として、あるいは何も考えないふりをして、たまりつづけるストレスに鬱々としながら、ただシステムがつくり出すシステムにとって都合のいいルールやマニュアルに従うだけの日々を送っています。

ほとんどの日本人が、中絶はよいことではないが仕方がない場合もある、と思わされているでしょう。その諦めが、「いのち」を取捨選択が可能な商品の位置に貶めます。「いのち」を殺して、システムが生き残るために、社会のすみずみに「中絶の黙認」を浸透させておくための周到なイメージ戦略がはりめぐらされます。中絶が痛みも苦しみもないお手軽な虫歯の治療程度のものとして女子高生に受け入れられているとしたら、それはひとつのイメージ戦略の成果です。

中絶支持者たちは自らをプロチョイスと称します。選択できる権利、自己決定する自由を個人の至高の原理と考えます。しかし、それがシステムを超えた普遍の原理となるのでしょうか? 他者を顧みない個人主義者は、GDPの上昇しか眼中にない政治家同様に、システムの忠実な僕です。自分でチョイスすることのほとんどが「他人の欲望」によって決定されている罠に気づかず、 どこまで行っても本物の自己決定には至れないまま、虚しい自分探しをつづけます。

「平和に対する最大の脅威は中絶」であり、「中絶の現実に比べればどんな悲惨な戦争も驚くに値しない」と、マザー・テレサは言いました。平和を求める様々な尊い活動が、もし中絶の問題をやり過ごしているのなら、それは木を見て森を見ない取り組みになってしまいます。脱原発が達成できても、システムは新たな暴走を始めるでしょう。今日の日本が中絶について語ることをタブーとする社会であるなら、日本人は「裸の王様」にひれ伏す哀れな臣民と同じです。

システムの外部に立つためには、絶対的な他者——産まれる前の子どもの側に立てなくてはなりません。すなわち唯一プロライフという立場が、システムを制御可能にするでしょう。「中絶を黙認する精神」が暴走する資本主義というシステムのアキレス腱です。その腱を断ち切れば、すなわち「中絶の否認」を社会が達成することができれば、暴走は止まるでしょう。「中絶やめよう」と声をあげる日本人になりましょう。「王様は裸だ」と声をあげた子どものように。

ProLife.jp